太祝詞を読み解いていくと、日本の和歌に見られるような独特の終わりのない、切れ目のない節が延々と続いていく感じがある。
「◯◯の、◯◯や。◯◯の、◯◯。」
私は文学の人間ではないので詳しくないが、調べてみるとそういう表現方法は海外にもあるらしい。
神話や序伝のようなものは前の文が次の文にかかって延々と続くように書かれているらしい。
「そういえばの、隣町の、2丁目の、佐藤さんのところの、長男の息子の、嫁の子供のお腹の皮膚の一部がかぶれて大変そうなんだよ」
こんな感じのだろうか。
ひたすら接続詞的な繋がりで繋げていく、笑
まあでも神話や伝説はそんな感じだろう。
途切れてはいけないし、そうすることでフィールドが発生する。
祓いの依頼などで、祝詞(やお経)を上げ続けると独特のフィールドが発生するので祓いが必要な人はその氣に混ざると眠くなる。
祝詞を展開すると眠くなるのだ。(もちろん状況によるが)
そのノリでプレゼンをするとまちがいなくボヤんとして眠くなるので上司に怒られるのは間違いない。
この眠たくなるプレゼンは本人の内容の問題もあるかもしれないが日本人が持っている独特のリズムのせいであることは否めないのは、傳トレの「言語のリズム」的な観点から見ても言えるような気もする。
祝詞という視点から見た場合は、プレゼンのせいで眠たくなるのではなく、眠たくる本人に鎮魂が足りないからだ。
そういう見方もできなくはない。というより寧ろその可能性は高いような氣もしてくる。
そしてあながちこの視点は間違いではないようにも思う。
現代文明は氣が上がりすぎで、往々にして鎮魂ができていない。

ふだん鎮まっていないからこそ、間延びした祝詞的フィールド発生下にさらされると眠くなるのではないだろうか。
この夢現のフィールドのことを考えると、
昨年の夏に、ネイティヴのユークアラ長老のリトリートに参加した時のことを思い出す。
グループセッションを始める前に「夢か現実かわからなくなってくるかもれないけどそういうものなので安心して下さい」という前置きのもと始まったセッション。
ネイティブの占いで出たものを一人一人に対して長老がリーディングをしていく際、長老がより深く読み解こうとするとそこをとりまくフィールドのエネルギーが濃厚になり、側で見てると本当に夢現だった。うつらうつらしつつも眠いわけでもなく、話は聞いている。でも意識ははっきりしていない。熱い。汗がじんわり出てくる。
グレートスピリッツのフィールドエネルギーとはこういうものなんだなと、行者が展開するフィールドとは少し毛色がちがうことを体感したものである。
グレートスピリッツのほうがより混沌も抱き合わせているとでもいうのだろうか。
だらだらと眠たくなるプレゼンもエネルギーはこもっているならば寧ろそれはフィールド展開をしている中で、鎮魂が足りない人の鎮魂をしているのかもしれない。
そんなことをふと考えた秋の夕暮れです。
龍光 拝