国常立。
国の御柱が立つのは
體(身体)が整い、心も整うことから始まる。
これを心身一如という。
天の常立。
天の御柱が立つのは
まず国の御柱が立ってから。
體(身体)を整えるとは
そういう過程の最初の段階。
国が常立、天も常立、
2つが揃って
神との道筋がようやく通る。
通ると外にばかり求めなくても
自分の中に神があるのだと知る。
目に見える媒介としての神宝だけでなく
己の幽宮にも鎮坐していると氣づく。
外に求めても答えはない。
きっかけは見つかるかもしれないが
あなたが探している答えではない。
この本質は滝行においても
全く同じことだなと氣がつく。
滝に行で入った者ならば
なんとなくわかるはず。
全は一、一は全である。
おそらく縄文に神宝は存在しない。
というより必要がなかった。
物質としての標が存在しなくても
当時の人はわかったから。
感じられたから。

世界の物質性が時代とともに濃くなるにつれて
神宝が必要になっていったのだと推測される。
神宝は霊性が弱まっていった現れともとれる。
そのアンバランスから抜ける兆しはあれども
未だに物質要素は強い。
AIの台頭で螺旋の宇宙が再現可能となりつつあるいまは物質世界フルベットを抜け出せる条件はよりそろってきている一方で、
螺旋から物質性の渦へ再び引き戻されようという流れもまた強い。
やはり地=国=體が立っていないからだろうと思われる。
地に立つのは足。
足で立つことで天と地がつながり、
それこそ道筋が通る。
天人地とは
この世界の狭間に足で立つ葦の私たちである。
国常立と天常立とを体現するには
足で立つことで物質世界としっかり繋がった上で
精神世界とも繋がること。
そのためのツールとして現代人には
やはり”はだし”なのである。
龍光 拝